医学とこころ
永井隆の宗教観
キリスト者だった永井博士の宗教観をのぞいてみよう。
また、キリスト教の聖書と仏教やマインドフルネス心理療法で探求する「こころ」の類似点を簡単にみてみよう。
一、宗教への批判と提言
二、キリスト教と仏教のこころの類似点
一、宗教への批判と提言
永井博士の浅薄な宗教に対する批判は、儀式ばかりになった伝統宗教、教祖や幹部自身を絶対化して信者を差別する宗教指導者の傲慢、自分では実践しない宗教学者、現世利益の宗教をおう人々。これらは、イエスの時代も、新しい仏教が興った平安末期や鎌倉時代にも永井博士の生きた時代も、オウム事件がおこる現代でも少しも変わらない。
○宗教指導者の慢心
◆「「指導師と称えらるることなかれ、なんじらの指導師は一人にして、すなわちキリストなればなり、なんじらのうち最大なる者はなんじらの下男となるべし。みずから高ぶる人は下げられ、みずからへりくだる人は上げらるべし」
すべてはキリストが指導するのである。孤児院の指導一切は神がなさる。修道女はただ下女として働くだけのことである。絶対の従順をもって黙々と働いている。」(A108)
「指導師と称えらるることなかれ」人間は指導師ではない。永井博士は、人間が自分をおごることを厳しく戒める。祭司や教祖などは、人間である。教団や企業のトップも人間である。人間は、絶対者ではない。人間の本質は平等である。人間は対等であるから、信仰の対象とはならない。キリスト教や仏教であると自称する新興の宗教の中に、教祖や聖職者を絶対化させたものがあるが、それはキリスト教でも仏教でもないだろう。みずから「私はブッダである」「私だけを信じよ」と威張る者は、かえって「下げられる」軽蔑すべき者でああろう。そんな「小さい者」をあがめ、時には貴重な人生を捧げるのは、悲しいことではないか。
すべての人の心の内に、いつも共にあるのが指導師である。自分の我を空しくする人の心に、それが現れるのである。マインドフルネス心理療法は、宗教ではないが、同様の心得が、精神疾患を治癒に導く。
◇『父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』(ヨハネによる福音書10−38)
こんな点によるものか、仏教のすぐれた指導者(空海、道元、白隠、盤珪、親鸞など)も、「私(指導者)を信仰せよ」とは言わなかった。つねにあなたと一つである真の自己(仏性)にまかせよ、それを信じよ、それを自覚せよ、というのが共通のように見える。しかし、残念ながら、これらを開祖とする教団の一部には、これら僧侶やその言葉、思想を信仰させるという浅い宗教になっているものがある。学者の学問仏教も、自分の実生活に実現されず浅い。だから現代社会の、大きな人生上の試練に際して、何も生きた働きをしない。
○形式、儀式に落ちた宗教
永井博士はこういう。
◆「しゃちこばって、難しい神文なんかを形式的にとなえ上げ、いかにも儀式をおごそかに取り行う一方、儀式がすんで一歩世間の実業に身を移すと、神のことなんか頭の先から掃き出してしまい、信仰は信仰、商売は商売、公私の別をあきらかにしておかんと・・・・などとうそぶいている信者にむかっては、神は果たしてどんなお気持ちを抱きなさるであろうか?
こんな連中はとかく、神というとどこか一定の神殿の奥に威張りかえっておさまり、この神殿にお参りに来て頼む者にだけご利益を下し、また格子の奥から鋭い眼玉を光らし、何か人間どもの悪事を見つけたら神罰を加えてやろうとねらっているお方にしてしまっている。それだから、その神さまの大前に出たときだけ真面目くさって平身低頭し、神殿から遠く離れるか、神殿の戸をとざして、神さまの目がとどかぬと見定めると、勝手きままのことをしでかす。隠匿物資を横流しして成金(なりきん)となり、大鳥居を寄進する連中がこれである。」(A81)
○現世利益の宗教は低級
◆「地上的な苦しみや悩みを消していただくために神を信ずるのは低級な信仰である。腹が痛いからモルヒネを注射してください、と医者に頼むような気持ちで、信仰生活に入ってはいけない。真の信仰生活はまだまだ高いところを行く。」(A96)
キリスト教の信者の中にも、永井博士から批判される信者がいる。信者ばかりでなく、キリスト教には各種の分派があり、指導者自体が永井から批判されるべき宗教者がいる。仏教信者も同様である。みな仏様をそれぞれ別々に描いている。
宗教レベルでは、上記のようになるだろうが、マインドフルネス心理療法は、宗教ではなく、医療であるから、精神疾患を治すという現世利益を追求する。注意集中、受容などの禅に似たこころの習練を用いて、精神疾患を治す。精神疾患で苦しむ人が、治したいと思うのを現世利益を追求するものだと批判してはならない。日本の宗教者や学者に、人の苦しみがわからぬ人がいて、思想ばかりで宗教を語るのは、誠実な宗教実践者を軽蔑する風潮を生み、社会の現実問題に無力となり自己衰退を招き悲しい。
○学者、知者は信仰を得ない
◆「もうひとつ妙に思うことは、大学者や大人物をさしおいて、そんな小物を神が選んだのはなぜだろうという点だ。これもはっきりイエズスが言っているところなんだよ。
「天地の主なる父よ、我なんじを称賛す。そはこれらのことを学者・知者に隠して、小さき人々に顕したまいたればなり。然り父よ、かくのごときは御意にかないしゆえなり」
神の教えの真髄はかえって学問のない人によくわかるのだろうね。人間的な知恵があるとかえってそのために目がかすんで、よく信仰をつかむことができないのかもしれない。」(A178)
聖書の、多くの箇所に「信じるのではなく、行いである」という言葉がある。仏教者も同様のことを言う人がいる。学者は、研究するだけで、自分では行わないからである。自分では、絵が描けない美術学者のようなものである。もちろん、宗教の学問が悪いわけではない。浅薄な宗教者を批判できるのも、学問である。だが、学者は謙虚であってほしい。自分の解釈力は絶対ではない。実行しないと自覚できない部分がある。
聖書が律法学者を批判し、禅僧が、口をきわめて学者を批判するわけである。例えば、「仏教は無我を説いた」と説明する学者が、無我を経験していないし、無我になっていない。テレビや本で仏教の学者の法話に接することがあるが、経典の内容が自分のことではなく、対象的に理解する思想・哲学となっていて、その人たちは、本当の歓びを得ていないのが見てとれる。だからテレビでしばしば仏教学者の話があるのに、人々を仏教に誘うことができず、人々は他の宗教に入る、あるいは、自殺する。
○資格
◆「神に愛せられるためには分別もいらぬ。多くの知恵もいらぬ、学問もいらぬ、経験もいらぬ、寄付もいらぬ、ただ幼児の天真らんまんさえあればいい。」(A82)
仏教でも似たようなことも言う。自分には何のとりえもない、弱い、学問や読書でも救われない、わからない、という人でいい。そのような人は、自分の評価を用いず、我(が)を捨てて、自己を超えたもの(超越者)に自己をゆだねることができるという。それが、神(仏性)に会える根拠である。理屈をいう学者は、神(仏)の救いにはあずかれない。学者は自分の知性を信じるから、自分(の頭)で自分を救う道しかとれない。彼らは、他者を救済することはできない。
もちろん、役割が違うのだから、学者、学問はあっていい。実践者も誤るから、学者が批判してほしい。
二、キリスト教と仏教の類似点
キリスト教と仏教は、よく似ている面もあるようである。特に、教会の解釈ではなくて、聖書の中のイエス自身の言葉と、禅は類似点が多いように見える。聖書の言葉で、キリスト教の人にとって不可解に思える言葉が、禅的に考えるとよくわかる、という言葉が多い。
○黙想
これまで見たように、永井氏はキリスト教信者の中でも特に深い境地を得ているように見えるが、なぜであろうか。たずねてきた、知人に対して永井氏は次のように語ったという。
◆「それじゃ、僕らの生きてゆくこれからの道はなんですか?」
「それを発見するために、私はこうしてこの壕舎に座って考えているのです。なかなか見つかりません」
「僕もどこかで静かに考えるかな」
「山に入って考えなさい。世の渦の中にいると、くるくる回るばかりでついに自分の道を見いださずに、わいわい騒ぐだけの人間になりますよ。青山元不動、白雲自去来、私はいつもあの三ツ山を仰いで黙想をつづけています。」(B141)
なぜ、永井博士は深い平安を得たのか、ここに一つの鍵がありそうである。永井は、「黙想」という禅やマインドフルネス心理実践と似たことをしていた。静かな山(自己本来の仏性)は、動かなくて、雲が動いているのであるが、あわてふためいている山が見ると、雲ではなく、山の自分が動いているように思う。自分の心が動いていると、自分のことも、世の中の動きや、だまそうとしている人(自分と他人)の心が見えない。
●キリスト教と禅
マインドフルネス心理療法では、多くの言葉を用いる。しかし、宗教の禅では、禅への信が固まった人には、もはや思想的な説明はあまりしない。しかし、キリスト教の信者の方で、聖書の言葉の解釈に疑問を持つ人が、禅にも参じる人もいる。キリスト者には、できるだけ言葉で説明してくれる禅僧もいるだろう。キリスト者は、禅(仏教)に転向する必要はないようである。禅はどの宗教、芸術、職業などに共通の基本的生き方であるともいえる。アメリカの医者が、マインドフルネス心理療法を開始した。禅の実践と極めて類似している。キリスト者は禅をすることによって、真に深いキリスト者になるかもしれない。キリスト教の考え方は『キリスト教がよくわかる本』(井上洋治著、PHP文庫)を参照した。禅的解釈のほうは私(大田)自身の解釈である。他の禅僧、禅学者にはまた別な解釈もあるかもしれない。
○パウロの見性体験
◇『人々が食事の準備をしているうちに、ペテロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地をはうもの、空の鳥が入っていた。』(使徒言行録10−10)
『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。』(使徒言行録22−17)
キリスト教の初期の伝導者であったパウロは、聖書に多くの言葉を残している。彼の回心であるが、聖書の使徒言行録の26−13にも詳しく書かれている。この出来事は、禅でいう見性体験(悟り)であると思う。「我を忘れた」というように、禅でいう「自己を忘れる」体験であり、これで自我の空(くう)であることを悟る。同時に、世界のすべてが自己の本性であることを、比喩で表現したのが、「その中に、−−−入っていた。」の言葉である。「主にお合いした」というのは、「絶対」を直観したということである。禅では、これを仏性という。自己と対象が分かれていない状態、自己と対立するものがない「絶対」を体験する。パウロは、それまでキリスト教を迫害する側であったのに、この体験があってからキリスト教の宣伝者になった。この体験によって、イエスの言っていたことが本当であったことを悟ったからであると思う。
●自己の本性に目覚める
◇『主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは〃霊〃のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。』(コリントの信徒への手紙3−16)
これは、見性体験によって、従来の見解が根こそぎ変わることを言っている。悟る前は、自分と神(仏)とは、別者と見ていた。また、自分と物や世界は別物と見ていた。その見方の誤りが「覆い」である。見性(悟り)によって、自己と物と神(仏)が一つであることを知るという。この聖書の言葉は、禅でいう見性、悟り、によって、世界観、人間観、神仏観が変わることを言うのでろう。聖書のイエスの言葉と禅でいうのと同じであると解釈できないこともない。
○目覚めていなさい
◇『気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。』(マルコ13−33)
聖書には、目覚めていなさい、という言葉が幾度も出て来る。ここでは「人の子が栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」というが、その時のために、目覚めていなさい、という場面である。これは、禅の見性体験はいつおこるかもしれないから、常に工夫を怠らないように、ということであろう。禅を修行している者にも、見性体験(悟り)はいつ起こるかわからない、という。油断して妄想したり、過去を悔やんだり、思想などに執着しているときには、絶対に悟りは起こらない。油断せず、禅中と同様の工夫を続けなさいという(これは、臨済宗の白隠系)。これが「目覚めていよ」である。この点では、現代のカトリックの解釈は、イエスの体験思想と違っているのだろうが、イエスは禅とかなり類似しているように見える。キリスト者のなかには禅と同じ解釈をする人もいるだろう。古くは、エクハルトがいる。現存する人では、イェーガー師がいる(注)。
(注)「波即海」イェーガー虚雲の神秘思想と禅、清水大介、ノンブル社、2007/8
○至福直観
◇『完全なものが来たときには、部分的なものはすたれよう。幼子(おさなご)だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。』
井上氏はこれがキリスト教では「至福直観」と言われているものであるという。
「この「顔と顔とを合わせて見る」という状態を、カトリック教会では、「至福直観」と呼び、至福の中での神さまとの一致の状態と理解してきました。」(井上氏207頁、注)
これは、カトリックでは死後のことと解釈しているのであるが、イエスやパウロの言うのは、生前のことであると私は思う。禅では、無我となって仏性、自己の本性を見る、という。この我を忘れた状態は、自分がないので、「死ぬ」という。禅では「大死」という。「完全なもの」とは、絶対(自己と対立していない)の仏性を直観することである。その見性体験の時、自己が無く、物と自己が一つとなっているので、見るもの(主観)と見られるもの(客観)とが分かれていないのを「顔と顔とを合わせて見る」と言っているのであろう。イエスの言っているのは、決して生物的な死後のことではないのだろう。だから目覚めていよ、というのであろう。死後のことならば、目覚めていよ、とはいわないだろう。
エクハルトを読むと、このほか、イエスの言葉は、禅と同じことを言っているものが無数にある。
(注)「キリスト教がよくわかる本」井上洋治著、PHP文庫
●遠藤周作のキリスト教批判
キリスト教にも外形が似ているようで、敵対するほどに違うものが多い。転びキリシタンをカトリック教会は弾劾、追放したが、当の信者は、キリスト教徒だと信じていた。遠藤周作がそれを指摘した。次は、小説『沈黙』の一節である。別な機会に遠藤周作を検討してキリスト教や仏教でいう、人間、こころ、をさらに考えたい。
●「私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。ーーーだがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。」
永井隆ー参考文献
A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ
B.『長崎の鐘』 永井隆 発行所:サンパウロ
C.日本テレビ 96年7月21日 知ってるつもり『長崎の鐘・51年目の真実』
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